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俺たちは松田直樹を忘れない

2017/06/18

松田直樹さんが亡くなったのが2011年8月4日、今年で七回忌を迎えます。
群馬が誇るサッカー界のレジェンド・松田直樹さんを偲んで…
『俺たちは松田直樹を忘れない』
このコーナーでは2002年に発刊された『松田直樹写真集』のエピソードをご紹介いたします
文:吉岡正晴

前編☆『松田直樹写真集』誕生前夜
きっかけは『マイアミの奇跡』
『松田直樹写真集』誕生のきっかけは1996年のアトランタオリンピックに遡る。そう、サッカーファンには鮮烈な印象として今なお語り継がれている『マイアミの奇跡*』である。オーバーエイジ枠をたっぷり使ったブラジル五輪代表を破ったあの一戦。その『マイアミの奇跡』の立役者の一人が松田直樹さんだ。(*男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がロベルト・カルロス、ジュニーニョ・パウリスタ、ロナウジーニョ、ベベット、リバウド、アウダイールを擁するブラジル五輪代表を1対0で下した試合)
当時、広報社という情報出版会社に勤めていた私は、群馬の流行発信メディア『月刊すたんぴーど』の編集に携わっていた。私はこの『すたんぴーど』にどうしても松田直樹さんを登場させたいと思っていた。もちろん「雑誌のため」であるが、本音の部分では「松田直樹さんの話が聞きたい」というのが勝っていたのは言うまでもない。
松田直樹さんは群馬の英雄である。桐生市の相生中学在学中、当時U-15日本代表の監督であった小嶺忠敏氏から「いいDFがいないか?」と相談された前橋育英高校・山田耕介監督が、当時FWの選手だった松田直樹さんをDFとして推薦したという。そして日本サッカー界に閃光が走る。「中田英寿と松田直樹はダイヤモンドの原石だ。この二人を中心に強化すれば世界と互角に戦える」と日本サッカー協会の関係者たちは目を輝かせた。今ではサッカーワールドカップに日本代表が出場するのは当たり前であるが、当時は、サッカーワールドカップ出場が『夢』であり、ましてやベスト16入りなど考えもしなかった時代である。前橋育英高校に進学し山田耕介監督の指導を受けると類い稀な才能はより進化を遂げる。17歳になると超飛び級でU-19日本代表メンバーに選出される。横浜マリノス(当時)でも高卒の新人選手とは思えない気持ちの入った激しいプレーを見せる。チームメイトであり現役の日本代表の中心DFとして『アジアの壁』と称えられた井原正巳選手を凌駕するシーンもしばしあった。

松田直樹さんのために誕生した『群馬スーパー列伝』
話を『すたんぴーど』に戻そう。私は「どんな大義名分で松田直樹さんにお願いしたら良いのだろうか?」と考えた。一回ぽっきりの単発企画では横浜マリノスにも「なんで松田直樹選手なの?」となってしまう。相手が気持ちよく引き受けてくれるためには担当者が上司に報告(または相談)した時に「それは良い企画だね」と思える『大義』が必要なのだ。そこで思いついたのが『群馬スーパー列伝』である。「群馬の英雄の半生を通して情熱や考え、経験を多くの子ども達や県民に伝えたい」という『群馬スーパー列伝』の趣旨を大上段に語った。そして「その第一回に是非、松田直樹選手を!」と横浜マリノス広報のKさんにお願いしたのであった。ところが私の杞憂とは裏腹に、あっさり「いいですよ。何時にしましょう」と快諾を頂いたのである。その時、私は「けっこう、簡単にOKをもらえるんだ」と大きな勘違いをしてしまう。真実は、松田直樹さんと横浜マリノス広報のKさんが特別だったのだ。私は、その後『群馬スーパー列伝』の出演お願いで苦労する。何回連続でNGをもらったことだろうか? もちろんOKしてくれた人もいて連載は何とか継続できたが、私としては誰でも知っている人に、せめて3ヵ月に一回くらいは登場していただきたいと考えていた。そうなると、もう、こじつけに近い理由でお願いしていた。余談だが、夏目雅子さんのお母さんの小達スエさんには「夏目雅子さんは幼少の頃、(小達スエさんの故郷の)沼田に行ってよく遊んでいたそうですね。雑誌やTVで『私の原風景は沼田の三角山です』と言っていたのをよく覚えています」といって了解をもらい、斉藤由貴さんには「主演された『はいすくーる落書き』(TBS系列ドラマ)の舞台は群馬県の勢多農林高校です。今、群馬でプチ斉藤由貴ブームなんです」と無理やりOKをもらったのを思い出す。

記憶力と解析力には鳥肌が立つ思いだった。時間軸が全く違う
『群馬スーパー列伝』での松田直樹さんのインタビューは今でも鮮明に覚えている。「気遣い」「真摯さ」そして「世界の一流と対峙したシーンをこと細かくスローVTRのように再現していた」ことは特に印象深い。私が最も聞きたかったのはアトランタオリンピックでのナイジェリア(この大会で優勝)のFWヌワンコ・カヌとのマッチアップである。その試合を松田直樹さんは克明に語り出した。まるで「カヌの皮膚の微妙な動きはおろか毛穴の動きから行動の予測まで全て見えているのか?」と思えるほどであった。その観察力と解析力には鳥肌が立つ思いだった。安直に言えば「一流は違う」となるが、それを飛び越え「私のような凡人とは違う時間軸で動いている」と感じた。元レーシングドライバーで当時のブリヂストンタイヤのテスターであった黒澤元治さんの「俺は富士スピードウェイの路面状況の詳細を1mではなく1㎝刻みで把握できる。この部分ではアイルトン・セナにも負けない」といっていた話と同じ類いなんだと感じた。私には想像もできない時間軸を持つ人に会ったのは後にも先にもこの二人だけである。もちろん、私は更に、松田直樹さんの大ファンになった。感謝と尊敬の念を込めて…。
そして、数年後の2002年。『松田直樹写真集』が誕生する。

後編☆『松田直樹写真集』制作秘話
2002サッカー日韓ワールドカップ!
前編の『誕生前夜』でお話したように『松田直樹写真集』誕生に絶大なるご尽力をいただいたのが横浜マリノス広報のKさんである。2002年4月、サッカー日韓ワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ 韓国・日本)を目前に控えたある日、私は横浜に向かった。当時の横浜F・マリノスの練習場兼クラブハウスのある東戸塚である。あえて電話では詳しい話をせずにお時間をいただいた。Kさんは「今回も群馬の情報誌の話だろう」と思っていたという。お会いして開口一番「サッカー日韓ワールドカップのノンフィクション本を松田直樹選手に執筆してほしい」と切り出したのだ。Kさんの手元にスルスルと半年前に手がけた私のデビュー単行本『ラルフ・シューマッハーの真実 ~本間勝久著~』を押し出した。『難しそうな顔をするのではないか?』そう心配していた私に、Kさんは「面白そうですね。ただし本人が何というか? 本人次第でしょう」と本人に打診することを約束してくれた。その場で断られることも覚悟していた私にとっては予想以上の手ごたえであった。「帰りは東戸塚駅までタクシーを奮発しよう」そう思い、受付横の『〇△タクシー呼出し番号』と書かれたプレートを手に取った。すると後方から「あれ、吉岡さん、今日は電車ですか?」とKさんの声。結局、東戸塚駅まで送っていただくことになった。帰り際に「必ず本人に話しますよ」と言ってくれたKさんの笑顔に期待は膨らんだ。

『松田直樹写真集』は本人のアイデア!?
 数日後、横浜マリノス広報のKさんから電話が入った。「申し訳ございません。吉岡さん、マツ(松田直樹)の本ですが、どうも本人が『文章は書けない』なんて言っているんですよ」とこのと。実はこのリアクションは想定内であった。現役のスポーツ選手が本の執筆などできないのは当然。本を書く余裕があれば身体を鍛えるか休養に当てているはずである。『ここは聞き取りの単行本にしましょう』と二の矢を出そうとした時、Kさんから意外な逆提案を受けた。「よく話を聞いてみると『僕は単行本で大上段からモノをいう柄じゃない』と言うんです。私もその通りだと思いまして。そこでこんなのはどうでしょう。『写真だけの本。しかもマツのコメントも無し』というのは…」と一気に提案モードになった。Kさんの勢いに勇気をいただいた私は「それでいきましょう。『松田直樹、ワールドカップ写真集』最高ですね」と即答。「具体的な話をさせてください。何時ごろなら横浜に来られますか?マツもその気になっていますよ」とKさんから電話が入ったのはその一週間後であった。この時点で、どのようにして写真を撮るのか? 借りるのか? 全く未知数であった。その後、最大の難関と思われた写真の入手についてはとても信じられないくらい上手くいった。(横浜マリノスのNさん、フォートキシモトの佐藤善広さん、JリーグフォトのTさんとKさん、皆さんには感謝しきれないくらいご尽力をいただきました。ありがとうございました)

『松田直樹写真集』の表紙はなぜ後ろ姿なのか!
松田直樹さんへ写真集の構成案を提出する日がやって来た。場所は東戸塚のクラブハウス。どんな話になるのか? 正直、不安でいっぱいであった。そんな不安をよそに松田直樹さんは私の目を見るなり「全て吉岡さんにお任せします。プロのお仕事を思う存分なさってください。よろしくお願いします。あっ、そうです。一つだけ我儘を言わせてください。表紙の写真ですが、必ず『頑張っていない写真』にしてください」と言ってくれたのだ。私は即座に「光栄です。表紙写真の件、任せてください」と確約。最初の打ち合わせは無事に終了した。
ところが、表紙の『頑張っていない写真』は難問であった。『松田直樹写真集』が出た後なので今となってはコロンブスの卵だが、スポーツ写真は『ガッツポーズ』や『真剣な表情』と相場が決まっている。『頑張っていない写真』なんて仮に写しても当然『没』となる。私は悩みながらも頓知を利かせた。『表紙は文字だけ』とも考えたが、それは『逃げ』であると却下した。最終的に行きついたのが『後姿の写真』である。これには「メンズnonnoでも大人気の松田直樹選手の顔が載らないなんておかしい!」「今、女子大生とOLに最も人気の高いサッカー選手。何で人気が高いか知っているの?」といった猛反発を受けたが全て力技で押し切った。
『松田直樹写真集』の表紙がなぜ後ろ姿なのか? これが真実である。

『松田直樹写真集』のヘアバンドのエピソード!
『松田直樹写真集』は「一般版」とスタジアムでの予約注文でしか手に入らないシリアルナンバー入りの「特別限定版」の2種類が発刊された。「特別限定版」に何か特典をつけようと侃々諤々している時に松田直樹さんから「自分が使っているヘアバンドを付けることってできますか?」と嬉しい提案をいただいた。渡りに舟どころか「本当にいいんですか?」と感激したのを覚えている。「じゃぁ、電話してみます」とアディダスジャパンのTさんに電話し、本当に夢のような、松田直樹さんが試合中に着用していたものと全く同じヘアバンドが「特別限定盤」の付録となったのである。
実はこのヘアバンドには後日談がある。「特別限定版」の引き渡しは試合会場の横浜国際総合競技場で行われた。多くのファン・サポーターが引換券を手に列をつくる。引き渡しブースでは出来上がったばかりの『松田直樹写真集』と付録のヘアバンドが手渡されていた。私も「ヘアバンド、どんなものだろう?」と僅か数個の見本を受け取って控室へ向かった。ところが、このヘアバンド、3色もあったのである。当時、松田直樹さんのヘアバンドは黒と思っていたので、すぐにアディダスジャパンのTさんに確認すると「実は何色もあるんです。本人は黒を愛用していたようですけど…」とのこと。そこに松田直樹さんが「(写真集)できましたか?」とやってきた。松田直樹さんは「そう、何色もあるんですよ」「でも『黒』だと思っている人が他の色をもらったら…」「こうしましょう。いつも『黒』をつけているので、今日は前半と後半でこげ茶と紫(だったと記憶している)を使い分けますよ」と。まさに神対応である。こげ茶や紫(だったと記憶している)をもらったファン・サポーターが大喜びしたのは言うまでもない。憧れの選手が自分が手にしたのと同じのをつけているのだから。

『松田直樹写真集』
サッカー日韓ワールドカップ(2002 FIFA ワールドカップ 韓国・日本)の後に発刊された貴重な写真集。シリアルナンバー入りの「特別限定版」には本人が愛用しトレードマークの一つであったアディダスジャパンのヘアバンド(本人が試合中に着用していたものと全く同じもの)を付録にしての販売となった。
また、出版社と横浜F・マリノスの合同認定書付の「直筆サイン本」も発売。販売も好調で初版3,000 部は予約段階で完売。急きょ緊急増刷をしたが書店でもあっという間に完売となった。余談だが、TBS系TV の情報番組『王様のブランチ』の写真集販売ランキングでスポーツ選手としては異例の3位(もしかしたら4位?)となっ
た直後は、事務所の電話が鳴りやまなかった。

知られざるエピソード
実は『松田直樹写真集』を発刊するにあたって当時のJリーグ関係者から好意でこんな話を頂いた。あくまで好意として…。「サッカーの写真集って売れないですよ。あのKさんの写真集もあまり売れませんでした。リスク高いですよ」と。Kさんとは当時ヴェルディに所属し日本が初めて出場したフランスW杯の直前に岡田武史監督から最終メンバーに残れない三人の一人として発表された選手。サッカーファンはおろか、お茶の間のみなさんも知らない人がいないくらいの有名人(もちろん今も)。一抹の不安を感じた私は横浜F・マリノスの試合を何度も自腹調査し興味深い傾向を知った。最も人気があるのは中村俊輔選手(すぐに海外に移籍しちゃったけど)、特にサッカー少年に絶大なる人気を誇っていた。選手Tシャツが売れていたのは意外にもドゥトラ選手、理由は『動虎』の文字が受けていたとか…。で、女子大生やOLが圧倒的に支持していたのが松田直樹さん。この調査が私の背中を後押しした。